nodakumamoto’s blog

書評サイト。日本、海外の小説をメインに週一ぐらいの更新予定。

小川洋子「不時着する流星たち」

実在の人物や出来事をモチーフにした、どこかいびつで奇矯な人々が登場する短編集。取り上げられるのは、グレン・グールドなど有名人から、バルセロナオリンピックのバレーボール選手団などといった個人ではない場合もある。そもそもあくまでモチーフであって、必ずしも本人たちが登場するわけではない。

世界の片隅でひっそりと生きる彼らは、読み手の常識的な感覚を揺さぶるような特別なこだわりを持っている。人目を惹くような派手な事件は起こらない。エピソードの語り手たちはたいてい慎ましやかだ。

 あっさりと、人生の重荷に耐えかねて狂気への道を選んだ、と言い切るにしては、登場人物たちは理性的で、言葉遣いが美しい。彼らの言っていることは、常識的、あるいは科学的には明らかにおかしいのだが、これはこれで一つの合理性を持っているのではないか、と読む者を納得させてしまうところがある。これは、著者である小川洋子さんの、非常に陳腐な言い方で申し訳ないのだが、透明感に満ちた文章のおかげだろう。

 透明感、とはなんのことだろう? 小川さんをはじめとして、しばしばある傾向を持った作家の文章を批評するときこの言葉は出てくるし、そう言われるとこちらもなんとなく、ああこの人はそうだよね、と理解した気になってしまう。

 

 私の仮定を書いてみる。

 論理的であること、ではないだろうか。

 支離滅裂な言葉の嵐で読者をもみくちゃにし、そのことで読書の快楽を与える作家もいる。そのやり方がいけないわけではないが、少なくともそういったものを指して透明感のある文章、とは言わない。

 何か透き通った美しさを感じるには、文と文のつながりがきちんとしていなければならないのだろう。

 この短編集内で実際に書かれているものは、しばしば醜い。人間や動物の倦んだ傷口や、みすぼらしい服、臭いのこもったキッチン、その他もろもろ、現実で出会えば体が嫌がるような事物が描かれている。それなのに、読むと美しさを感じてしまう。

 なぜだろう。

 別に小川さんに限った話ではないのだろうけど、この人の小説を読むと、特にこのことを想起してしまう。

 

 十の短編はそれぞれに特色があり、読む人によって好みがわかれるところだろう。

 私はなんといっても第六話の「手違い」で、限りなく現実に近い世界から、一歩か二歩、幻想の世界に片足を移すようなこのバランスがとても好きだ。

第七話「肉詰めピーマンとマットレス」も、日本人にあまり馴染みのない異国、しかも二十年以上前が舞台ということもあって、淡い異界の空気が心地よい。全十話の中で、もっともシンプルに家族愛を描いているのもよかった。もっとも、それもバランスの問題かもしれず、他の短編でいくつかキツめのブラックな笑いを込めており、それ故にこそ引き立っているのかもしれない。

 料理で甘さと辛さのどちらがより大事かと断定するのは難しいことなので、やはり全体としてこの短編集が素晴らしい、という結論になる。

 

 

 

レアード・ハント「優しい鬼」

 一人の白人女性が語る、ある家庭の陰惨で暴力的な物語が主軸となっている。背景は、黒人奴隷制が当たり前だった南北戦争以前のアメリカで、今から一世紀以上昔の話だけあって、現代日本とは何もかもが遠く、まるで異世界の話を読んでいるような心地になる。

 自宅に広大な農園があるという男の話を真に受けて、女の両親は、まだ十四歳の娘を嫁にいかせる。実際は、前妻との娘二人と、あとは奴隷が数名といったところで、立派とは言い難い納屋や畑があるだけだった。騙されるようにして結婚生活を始めた女は、何年も何年も夫から日常的に繰り返し受ける暴力により、自らもまた、他者に対して習慣的に暴力を振るうようになる。

 語り手は、これら残酷な事件を、遥か後年から回想しており、淡々とした口調で狂気じみた暴力の行使が語られる。この語り口調が本書の大きな特徴だ。無教養な、洗練されていない環境に育ったという人物設定なので、言葉自体が非常に回りくどく、要領を得ない。あえて、通常我々が見る文章よりも、ひらがなを多用している。しかしそのぐるぐるといつまでも徘徊するような言葉の中から、迫真の、いたたまれなくなるような登場人物の肉声が聞こえてくる。

 ただ、延々と露悪的に暴力や狂気のみを描いているわけではない。後半の展開に至れば、前半の執拗なそういったシーンも、人間の醜さや美しさを浮き彫りにする上でどうしても必要なものだったのかもしれないと、納得できる。

 また、特筆すべきは、この物語の語り口調と関連することでもあるが、放縦ともいえるほど随所にあらわれる幻想描写だろう。アルコフィブラスという印象的なキャラクターが特にそうだが、現実が奇妙な形で入り込んだ幻惑的な挿話や、脈絡がありそうでない悪夢のようなシーンが、本書では頻出する。

 正直に言って、気軽に読める小説とは言えない。翻訳者の柴田元幸さんが、相当な努力を注いで日本語として読みやすくしていると思われるが、それでもかなり集中力を要求される読書になるだろう。

 

ここぞ! の引用

 

 わたしの真四角の王国の話をしたい。王国の一角にはアルコフィブラスが住んでいていろんな話をつむぎ出している納屋と、かれがしばりつけられ鞭打たれて来世へ送りこまれたカシの木があった。べつの一角にはわたしが六年間くらしライナス・ランカスターがかよいをおこないわたしたちみんなの主人であった、いまや死者として君臨していたみじめな家。三つめの一角はホレスとユリシーズがたがやした川ぞいの畑に通じるちいさな橋。かつてはその畑に馬が食む草がありかつてはわたしがみんなといっしょに気ままにあそびまわり、いまでは豚たちが森からやって来てはジゴクのへりの黒い浜辺でたわむれるヒレ足つきの動物みたいにその巨大なからだをゴロゴロころがしていた。四つめの角は鎖があってネズミたちのいる物置小屋だった。まんなかに深い井戸があってわたしたちはそこから水をくみ上げ、水が凍ると石を落として氷をわった。まわりは四方とも森だった。森を野道が一本つらぬいていた。その道を、架空のわたしがとっとっと下っていく。木の葉に照らされた空へ架空のわたしがのぼってゆく。黒いケンタッキーの土のなかに架空のわたしがしずんでゆく。井戸を下って、若きクリオミーの幽霊がぶら下がったまえを過ぎ、そのまま大地のはてしない水をつらぬいて架空のわたしがおよいでいく。

 

 一例をあげたが、このように、ほぼ全編通して、語り手の肉声と向き合っているような感覚を味わうことになる。その中で、少しずつ真相らしきものが明らかになっていく。歴史的な事件を教科書的に解説してくれることはないが、その時代の渦中で生きた人々を通して、その背後に歴史や社会が浮かび上がってくる。

 結局、タイトルの「優しい鬼」がいまだに僕にはわからない。原タイトルは「kind one」だ。「優しい一つ」と直訳しては意味がわからないのは確かだが、それにしても鬼とは何か。桃太郎に出てくるような鬼なのか、はたまた中国語での意味すなわちゴーストなのか、あるいは性格描写としての鬼なのか……本書の序盤で一応ヒントというか、鬼に言及している場面があるが、やはりはっきりとはわからない。

なんなんだろう。

 

 

 

優しい鬼

優しい鬼

 

 

ポール・オースター「闇の中の男」

 ある男が穴の中で目を覚まし、出てみるとそこは内乱状態のアメリカで、どうやら2001年の同時多発テロ事件が起きなかった平行世界に飛ばされたようだ……というのが一つの核になったストーリー。ただ、これは一人の老人が眠れぬ夜、闇の中で思い描いた物語であることが、冒頭からすでに示されている。読者は、はじめから嘘と分かっている話を読み進めていくことになる。

 なんだ、これは嘘なのか、という思いと、そもそもこれは小説なのだから嘘でまったく問題ない、という思いが交錯し、そうこうしているうちに話に引き込まれ、物語られる人物たちの運命に関心を引き寄せられる。

 途中で差し挟まれる短いエピソードも、第二次世界大戦や冷戦、イラク戦争など、何かしら今を生きる人間と無縁ではない歴史的事件が背後にあり、否応なく関わる普通の人々を、淡々と、時には突き放すような筆致で描く。同時に、彼らの青春時代が、おそらくは実際にあったこと以上(フィクションにおいて実際にあった、などというのも変な話だが)に輝かしく彩られ、生き生きと語られる。

 自分や家族に不幸を抱えた男が闇の中、一晩のうちに、実に数多くの物語とともに過ごしてきたのだという詠嘆と共に、この本を読み終えた。

 

 翻訳者の柴田元幸さんは、原著者のポール・オースターの本をたくさん手掛けていらっしゃるようだ。あまり難しい言い回しを使わず、かといって浅い文章ではまったくなく、読んでいて心地よい訳文だ。翻訳は水もの、と何かの本で読んだが、今世紀に入って訳された本だけあって、とても新鮮な日本語を味わえる。名作と言われる翻訳ものが一概に古くて価値がないというつもりはないが、こういった新しい翻訳ものからだと、私のように古典翻訳ものに苦手意識を持っている人間でも入りやすくていいと思う。

 村上春樹さん著「騎士団長殺し」が面白く読めるのであれば、きっとこの本とも波長が合うだろう。

お勧めです。

 

 

ここぞ! の引用

 

東京物語』の終わりに出てくる懐中時計。私とカーチャはこの映画を何日か前に観た。私も彼女も二度目だが、私の一度目はもう何十年も前、六〇年代末か七〇年代初頭までさかのぼる。いい映画だと思ったこと以外、物語の大半は頭から消えてしまっていた。小津安二郎、一九五三年、日本の敗戦から八年後。ゆったりとした荘厳な作品で、これ以上はないというくらいシンプルな物語だが、きわめて優雅に、深い感情を込めて作られている。結末に至ると私の目には涙が浮かんでいた。映画の中には書物に負けず優れたもの、最良の書物に負けず優れたものもあって(そう、カーチャ、そのことは私も認めよう)、これは間違いなくそういう一作だ。トルストイの中篇小説に劣らず繊細で心を動かす。

 

 日本の作品に言及していたというひいき目も加味してこの文章を引用した。「闇の中の男」では、映画に限らず、人づてに聞いたエピソードや登場人物が勝手に思いついた話など様々に自由な形式で語られるが、ここでは数ページに渡って東京物語のある重要なシーンが描写され、それについて語り手の考えも二、三書かれる。

 私も一応二度ばかりこの映画は見たのだが、かえってこのポール・オースターの文章を通じて教えられることも多く、見識の深い人はすごいなあと感嘆の念を抱いてしまった。

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読んだ本についての感想を書いていこうと思います。できれば週一くらいのペースで書ければいいな。

日本や海外の小説がメインになるかと。

なるべく新しい本にしていきたいですが、とりあえず自分が今読んでいるものを中心にやっていきます。

今読んでいるのが、レアード・ハント「優しい鬼」なので、第一候補はコレです。といっても2015年に出版されているので新刊とは言い難いかもしれませんが。

その前に読んだのがポール・オースター「闇の中の男」で、これは2014年。

村上春樹さんの新刊もすごく面白くて、本好きにはぜひともお勧めしたいところですが、すでに巷に書評があふれかえっており、今更僕に何か付け加えられるかどうか自信がないので、保留にしておきます。

もちろん、目新しいことでなくても、書くこと自体に意味があるとは思いますが、そこはまあ、時間との兼ね合いということで。

ひとまず毎週土曜に更新を目指します。まだこのブログの使い勝手もよくわかっていませんので、まずはそこからということで。