nodakumamoto’s blog

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小川洋子「不時着する流星たち」

実在の人物や出来事をモチーフにした、どこかいびつで奇矯な人々が登場する短編集。取り上げられるのは、グレン・グールドなど有名人から、バルセロナオリンピックのバレーボール選手団などといった個人ではない場合もある。そもそもあくまでモチーフであって、必ずしも本人たちが登場するわけではない。

世界の片隅でひっそりと生きる彼らは、読み手の常識的な感覚を揺さぶるような特別なこだわりを持っている。人目を惹くような派手な事件は起こらない。エピソードの語り手たちはたいてい慎ましやかだ。

 あっさりと、人生の重荷に耐えかねて狂気への道を選んだ、と言い切るにしては、登場人物たちは理性的で、言葉遣いが美しい。彼らの言っていることは、常識的、あるいは科学的には明らかにおかしいのだが、これはこれで一つの合理性を持っているのではないか、と読む者を納得させてしまうところがある。これは、著者である小川洋子さんの、非常に陳腐な言い方で申し訳ないのだが、透明感に満ちた文章のおかげだろう。

 透明感、とはなんのことだろう? 小川さんをはじめとして、しばしばある傾向を持った作家の文章を批評するときこの言葉は出てくるし、そう言われるとこちらもなんとなく、ああこの人はそうだよね、と理解した気になってしまう。

 

 私の仮定を書いてみる。

 論理的であること、ではないだろうか。

 支離滅裂な言葉の嵐で読者をもみくちゃにし、そのことで読書の快楽を与える作家もいる。そのやり方がいけないわけではないが、少なくともそういったものを指して透明感のある文章、とは言わない。

 何か透き通った美しさを感じるには、文と文のつながりがきちんとしていなければならないのだろう。

 この短編集内で実際に書かれているものは、しばしば醜い。人間や動物の倦んだ傷口や、みすぼらしい服、臭いのこもったキッチン、その他もろもろ、現実で出会えば体が嫌がるような事物が描かれている。それなのに、読むと美しさを感じてしまう。

 なぜだろう。

 別に小川さんに限った話ではないのだろうけど、この人の小説を読むと、特にこのことを想起してしまう。

 

 十の短編はそれぞれに特色があり、読む人によって好みがわかれるところだろう。

 私はなんといっても第六話の「手違い」で、限りなく現実に近い世界から、一歩か二歩、幻想の世界に片足を移すようなこのバランスがとても好きだ。

第七話「肉詰めピーマンとマットレス」も、日本人にあまり馴染みのない異国、しかも二十年以上前が舞台ということもあって、淡い異界の空気が心地よい。全十話の中で、もっともシンプルに家族愛を描いているのもよかった。もっとも、それもバランスの問題かもしれず、他の短編でいくつかキツめのブラックな笑いを込めており、それ故にこそ引き立っているのかもしれない。

 料理で甘さと辛さのどちらがより大事かと断定するのは難しいことなので、やはり全体としてこの短編集が素晴らしい、という結論になる。